奢るvs奢られる
あなたは奢る人ですか、奢られる人ですか?
カネに対して持ってる考え方って、本当に、人によってバラバラだなと思う。
そして俺はというと、比較的重たく考えている方だと思う。
小学生の頃。
俺がお金を稼ぐ唯一の手段は、母親の肩揉みだった。
10分肩揉みして、10円。
時給60円。w
それでもその10円を片手に近所の駄菓子屋で「きな粉棒」を買うのがめちゃくちゃ嬉しかった。
そんな育ち方をしてきたから、お金のことは比較的重たく考える。
これは、「執着」や「ケチ」とは少し違う。
特に1対1の場合は、人によく奢る。
これは、自分が金銭的に得をしたら嬉しいから他人にそうさせてあげたいし、
金銭的に損をしたら嫌な気分になるから他人にはそうさせたくない、
という気持ちから生じているのだと思う。
今一度、奢る、奢られるについて、自分の考えをまとめておきたい。
まず大前提として、その場に居合わせている歳上や目上の人って、"絶望的に不利"だと思う。
奢った場合は当然(額にもよるが)金銭的なマイナスを被り、
逆に奢らなかった場合は"ケチなやつ"というレッテルを貼られるリスクを伴う。
因みに、「社会人は大学生と比べてリッチなんだから奢れよ!」みたいな比較を持ち込む人は、申し訳ないがちょっとイケてない。
何がイケてないかというと、「大学生のお金の価値」と「社会人のお金の価値」を比較してしまっていること。
そりゃ当たり前で、稼ぎの少ない大学生Aがもつ1万円の価値は、社会人Bが持つ1万円の価値より高いと思う。
ただ、天秤にかけるべきはAさんとBさんの1万円ではなく、
「Bさんの中での1万円の使い道」で比較するべきだと思う。
当然、Bさんは奢った分の1万円を、他に自分が価値を感じる所へ投じることができた筈である。
だから、奢ることによる機会損失の程度は、大学生だろうが社会人だろうが変わらない。
話が脱線したが、そんなこんなで圧倒的不利な立場にある"奢ラー"。
そんな奢ラーに唯一残された道。
ぼくが考える、唯一残された道。
それは、奢った時に感謝されることだと思う。
欲を言うと、「えっ、マジですか?」ぐらいの軽い"意外性"が欲しい...笑
シンプルだが、もう、それに尽きると思う。
最近、奢られることが当たり前みたいな顔してる人が増えてきた気がする。
n=1の体感値なのであまり気にしないで欲しいけど
そもそも、金銭的補助を受けるべきはあなたのパパやママからであって、血のつながっていない目上の他人に奢る義務なんて全くない。
奢るって、本当に優しくて素晴らしい行為だと思う。
だから、その優しさを踏み躙ってる人を見ると少しやるせない気持ちになる。
あと、複数人で遊ぶ時は、個人的にあまり奢りたくない。
理由は2つあって、1つ目はシンプルに数の原理で1人の負担が増えるから。
1対1では5000円で済んだところが、5人いると2.5万にもなる。ほぼ1ヶ月の食費代。
何より、こっちは2.5万も出してるのに奢られた側は5000円分のメリットしか感じていないのは不合理だ。
正直、5人以上いる場所で「〇〇さん奢ってくださいよ〜」みたいなノリを展開する人はちょっと共感能力が低いのかなと思ってしまう。
俺は複数いる場でも出す時は出すけど、
そんなノリが展開されていて前述した「唯一残された道」が閉ざされている状況では、とてもじゃないけど全額は出せない。
これが1つ目の理由。
2つ目は、「お財布要員」になるリスクが高まること。
無条件に金をばら撒く人になってしまうと、それだけがその人の介在価値になってしまいかねない。
金のために呼ばれているのか、それとも一緒にいると楽しいから呼ばれているのか、わからない。
羽振りが良くてカッコいい奴、という理想像もあれば、割り勘してても面白くて毎回呼びたくなる奴、という理想像もあると思う。
おれは両方取りたい。
割り勘でも一緒にいて楽しい存在でありたいし、時には数十万くらいなら1つも嫌な顔せず奢れる財力が欲しい。
と、つらつら奢る・奢られることについて書いてきたが、
楽しい場なのに、たかがカネのどうこうで気持ちが冷めるのは本当に勿体無いと思う。
だから、せめて奢られる人は奢る人に「唯一残された道」を譲ってやってほしい。
そんなお話。
きんじょ