砂時計を買った

根っこがシャイだから、優しすぎる人との相性が悪い。
根っこがシャイだから、相手から一度に受け止められる優しさに限界がある。
根っこがシャイな理由を考え出しては、いつも幼少期の体験に原因を擦りつけることしかできない。
親の仕事の都合で、小学校が2回も変わった。
特に6〜10歳頃の男の子の転校っていうのは、今考えてもかなり厳しいものがある。
現に1回目の転校で京都の小学校に入った時、軽い標的に遭った。
それ以来、目の前の相手に対して豊かな感情表現をするなんてことは身体が許さない。
この記事ではいったんそれをシャイと呼ぶ。
シャイゆえ容量が小さい。
俺の容量は200ccくらいしかないのに、優しすぎる人は良かれと思って一気に1Lくらい注いでくる。
優しすぎる人は、俺から溢れ出た800ccを見て悲しい表情を浮かべる。
相手の表情を見て、自分の容量がもう少し大きければと思う。
でも一方で、俺は自分の容量にすっかり慣れてしまった。
容量が小さい分、自分に注がれた200ccをじっくり時間をかけて消化することができる。
なんであんなことしてくれたんだろう、その人にはどういう過去があったんだろう
今では、大容量を持ってして優しさを丸呑みする人と比べてむしろ優越感を覚えてすらいる
理想的には、同じ容量を持った人どうしで体積を交換し合っているのが楽なはず。
でも、こんな俺とも仲良くしてくれる容量お化けもたまにいる
俺から溢れ出た800ccを見て、悲しむどころか笑ってくれるような容量おばけ
そんな人を見ていると、やっぱり自分もいつか容量おばけになりたいと思っているのかもしれない。
砂時計を買ってみた。
30分尺だから、想像の3倍くらいでかい
落ちていく砂を見ていると、月並みだけど時間の大切さを実感する
デジタルの数字は落ちていかないから、ついつい時間が無限のように錯覚しがち。
落ちていくデジタル……
そうだ、あのクソキモいプロジェクター時計でも部屋に設置してやろうか
新居。独身なので賃貸。結婚したら引越す。 pic.twitter.com/fO4KJ099dm
— 為国辰弥 (@tamekuni_t) 2025年11月6日
Instagramのストーリーズという甘え、逃避行動について
Aさんが1週間前に投稿していたストーリーズの内容を、いったい誰が覚えているというのか。
Aさんが食べたご飯、Bさんが見た景色、CさんとDさんが一緒に遊んでいる集合写真。
ノータッチで次々と別の人の投稿が流れてくる。完成されたUI。音速の消費活動。
このことは投稿する側も重々承知の上なのだろう。
むしろ「どうせ見て捨てられるから」というのを良い理由に、承認欲求の小腹を満たすために投稿しているようにすら見える。
ポートレート機能で撮ってみた飯の写真、友達より自分のほうが少し盛れた自撮り。どれもこれも、大して作り込まれたものではない。
だから閲覧する側はすぐ忘れ、投稿する側は小さな承認欲求だけが満たされる。
ひたすら虚無なサイクルが回転するプラットフォーム。
この"承認欲求の自転車操業"とも言うべきものを、いつまで続けるべきか考えてみたい。
自慢や承認欲求自体はとても健康的なものである。
これは個人的な提案にすぎない。
承認欲求を小出しにするのはほどほどにして、溜めて溜めて、1発のでかいエネルギー弾を撃ってみないか。
例えば、こんな感じでブログを書いてみるなんてどうだろう。
ストーリーズに小っこい文字を詰め込むくらいなら、ちゃんと記事に起こしてみたらいい。
俺がこのはてなブログに投稿している本数なんてたかが知れてる。
でも結構友達に「あんなこと書いてたよね」って言われることがある。
これは、俺が承認欲求を固めて固めて出した賜物にすぎない。
時間をかけて書いても見られない?本当にそうだろうか。
ありきたりのストーリーズの中に突如ポッとブログのリンクが貼られていたら。
俺は絶対にお前のブログを見にいくぞ?
ほら、俺の書いた記事ですら、こんなところまで読んでいるじゃないか!
YouTubeでVlogを投稿するのもおもしろい。
動画は視覚、聴覚まで丁寧に記録してくれる。
この前ストーリーズにこの動画を貼ったら、何人かから面白かった!とDMをもらえて嬉しかった。
(そして、なぜか会社の同じ部署の人にまで知られていた。)
あと、YouTubeには過去動画を掘り返す文化がある。
これはすごいこと。
2-3年前の動画でも平気で再生される。
この視聴者行動は、InstagramやTikTokではほぼ考えられない。
だからここ最近は本業以外の稼働時間をYouTubeに割いていたりする。
なんでみんなYouTube動画を出さないのか。
動画編集はそんなに難しいものじゃない。
ここまで散々ストーリーズをディスってきたけど、ストーリーズにも特徴的な価値はいくつかあるように思う。
まず1つ目は、DMへの滑らかな接続。
上にスワイプするだけで、DMを送れる画面になる。
DMから余裕で飯の約束が生まれたりするのはアツい。
じゃあもう、ストーリーズは「ご飯お誘い専用機能」で良くないか?
ただみんながひたすら親しいリストで「今日ご飯いける人DM募集」 っていうストーリーだけを上げてる世界。
想像すると、かなり素晴らしい。
2つ目は、儚さをともなう記念写真の共有。
結婚式の写真をフィードではなくストーリーズに上げている人を見ると勝手にセンスがいいなと思ってしまう。
24時間で消えるからこその、その瞬間を切り取る美しさなのだろうか。
そして美しいストーリーズは、見た側もたいていちゃんとスクショで残していたりするものである。
3つ目は、ひたすら自分の"好き"が詰まった投稿。
そもそもインスタの理念は、自分の好きと相手の好きを繋げること。
裏側に承認欲求がまったく見えない、純粋な好きの詰まった投稿は見ていて気持ちいい。
でも、職業病でせっかくならブログとかYouTubeにあげたら?と思ってしまう。
本当にそれが好きなら、生半可な映え写真を共有している場合じゃなく、一度長文長尺で語り尽くしてみないか?
ストーリーは甘えです(個人的感想)。

ほんのり嫌われるくらいなら、鋭く嫌われてしまえ
おじさんにならないためにはどうすれば良いか?
自認は24くらいだけど、言ってる間に30も近い。
このタイミングでちゃんとおじさんについて考えてみたい。
ちゃんおじ。
人はよく他人のことを「おじさん」とからかったり、
または自分自身のことを「おじさん」と自虐する。
正直、「おじさん」とはなるべく言われたくないし、そんな自虐もしたくない。
では、どのような状況で「おじさん」と言われたり言ったりするのだろうか?
最初は下記のように考えていた。
つまり、自分より相対的に若い人がいるべき場所に、自分が居てしまう状況にあること。
たとえば僕は今、マリオカートのチームに入っている。
平均年齢は23歳くらい。
アクティブに活動しているメンバーの中では、知らないうちに僕が最年長になってしまった。
対戦中によくプレイミスをする。
こんな状況では、おじさんと呼ばれても仕方がないだろう。
でも、本当にただ「若い人に混じっている」という事象だけが「おじさん」を誘発しているのだろうか。
例えば、マラソンに出場しているおじさんはもはや「おじさん」ではない。
必ず「若いですね」とみんなから褒められる。
もう一つ条件を足してみる。
つまり僕はこう考えた。
自分が相対的に年長の立場にあるとき、自分がその立場や場所にいることが周りの若者にとって憧れや理想なのであれば「若いですね」と言われる。
逆に、俺は将来そんな場所にいたくねえよ、と思われるなら「おじさん」と言われる。

では、その場所の違いとはどのような違いなのだろうか。
マラソン:たぶん良い場所
ゲーム:たぶん良くない場所
おそらく、良い場所は下記の2つの条件を兼ねている。
1. その活動が社会的に評価されている
2. そのコミュニティの民度が高い
スポーツや勉強、地域活動、音楽、料理、アウトドア。
そもそもTierの高い活動においては、おじさん扱いされづらい。
そして、(しばしば1の条件に比例するが)周囲の価値観が多様性を認める受容力があるとおじさん扱いされづらい。
じゃあ、これからはゲームをやめてボランティアしよう!
でも、自分の人生本当にそれで良いのか。
そんな社会的な、客観的な物差しで自分が時間を投じる場所を決めてしまって良いのか!?
そんなことを、もやもや考える。
俺は何があっても自分が居たい場所に居続けてやる。
…でもやっぱり「おじさん」と呼ばれるのは怖い!!!😱
マリオカートの配信者に、くさあんという人物がいる。

https://x.com/kusaannanora/status/1941137428187898126
彼は確か僕の1つ下の28歳。
マリオカートのコミュニティでは、もはやかなり相対的年長のポジションである。
そして、マリオカートという活動そのものはどう考えても社会的評価が低いし、僕もこの界隈にいて痛感するが、正直民度はかなり低い。
でも、このコミュニティにいる人の多くは、あまり彼をおじさんとは揶揄しない。
この状況は、どのように説明できるか。
それは、彼はYouTubeチャンネル登録者20万人超だったり、切り抜き配信の収益を寄付していたり、マリオカートコミュニティ全体に貢献していたりするバックグラウンドが関係しているように思われる。
つまり、社会的評価の高い実績を盾に、社会的評価の低い場所で踊っている。
やることをちゃんとやってたら、いくらその場所が不相応だったとしても美しくいられるような気がする。
俺はここからの5年で、この免罪符を手に入れたい。
80歳になってもおじさんと呼ばれないゲーマーでいるために。
いや、そこまでいくとおじいさんだからとかではなく
限定的コミュニティにおける内輪ネタの是非について
大学時代のサークル仲間16人ほどで集まり、そこで2人×4組で漫才大会をやる機会をもらって、とても良い思い出を作ることができた。
僕と僕の相方は、サークル時代の思い出にちなんだいわゆる「内輪ネタ」を披露した。
さて、回していた動画を見返してみると、当時は役を演じきった安堵感が大きすぎてあまり気にはできていなかったが、他の組で漫才を披露した人のうち何人かは内輪ネタをあまり快く思っていないようなコメントをしていた。
正直、ネタを作り始めたときから(僕のペアはどう思っていたか知らないので、あくまで僕個人は)内輪ネタを選択することに全く何の迷いも持っていなかった。
だから、内輪ネタを敬遠する他の人たちの心理も正直全然理解しきれていない。
ただ、これは意外にわりと根っこの人生観までを含んだかなり面白いテーマなんじゃないかという気がして楽しくなってきたので、今、生成AIに質問しつつ掘り下げてみる。
プロンプト:
6年ぶりに大学のサークル仲間たち16人と旅行をして、そこで4組が漫才をしました。 サークルの思い出にちなんだいわゆる内輪ネタを披露したところ他の組の演者の何人かが、僕たちが内輪ネタを選択したことを少し敬遠しているように見えたのですが、これはどういった観点なのでしょうか?
回答:
「内輪ネタ」と揶揄された理由は、披露した漫才のネタが、特定の仲間内だけに通じる内容や、大学時代の出来事やエピソードに限定されたためだと考えられます。
具体的には以下のような観点での指摘だと思います。
1. 共有できる文脈が限定的だった
- サークル内のエピソードやキャラクターは、サークルのメンバーにとっては面白くても、サークル外や忘れてしまった人にとっては共感が難しくなります。その結果、特定の人たちだけが楽しめるネタになった可能性があります。
2. 普遍的な笑いにつながりにくかった
- 一般的な漫才では、多くの人が共感したり理解したりできる要素(例えば日常のあるあるネタ、一般的に知られた社会現象など)を取り入れます。サークルのエピソードが強すぎると、そうした普遍性から離れてしまい、笑いの輪が広がりにくくなります。
3. 観客視点への配慮が不足していた
- 漫才やエンターテインメントでは、観客がついてこられるように設定や説明を工夫する必要があります。内輪ネタだと、聞き手側への配慮や工夫が不足していたと感じられる場合があります。
こうした指摘は「悪い」ことではなく、むしろ次回以降、どんな観客にも伝わるような工夫や普遍性のある笑いを考えるためのヒントになります。
身内で楽しむことが目的の場面なら「内輪ネタ」も良いですが、一般的な場では、共感の範囲を広げる工夫をするとより喜ばれるでしょう。
ここで言われている「文脈の限定性」や「観客間でのリテラシーの差異」について、今回の企画はもともと共通のコミュニティで共通の思い出をシェアした内輪内だけで披露することが予定されていたため、プロンプトで補足する。
プロンプト:
もともとサークルにいた16人の間のみで披露することが予定されていた企画なので、外への公益性は観点ではない気がします。
回答:
なるほど、サークル仲間16人の中だけで披露することが前提だったなら、「内輪ネタだ」と揶揄された理由は、外部の視点ではなく内部の文脈で考えるべきですね。
考えられる指摘の観点
1. 「内輪ネタ」に頼りすぎたことで、笑いの質が低くなった
- 「〇〇先輩っていつも〇〇だったよね(笑)」のような、知っているだけで笑えるネタに頼りすぎると、漫才の構成やボケ・ツッコミの工夫が弱くなりがちです。
- つまり、「ネタそのものの面白さ」ではなく、「知ってるから笑える」だけになっていた可能性があります。
2. 誰がやっても面白いネタではなく、特定の記憶に依存していた
- 「あの合宿のときの〇〇事件」といったネタは、その場にいた人の記憶や感情に強く依存してしまいます。
- しかし、同じ16人でも、当時の出来事を鮮明に覚えている人とそうでない人がいるため、盛り上がりに温度差が生まれやすいです。
3. 「内輪ネタ」の度合いが、16人の中でも濃すぎた
- サークル全体の思い出ではなく、例えば「特定の3~4人だけが知っている話」や「ごく一部の人しか共感できないエピソード」を軸にした場合、それ以外の人は「?」となる可能性があります。
- 「内輪の中でも、さらに一部しかわからない話」をしてしまうと、**「身内向けにしても狭すぎる」という意味での「内輪ネタ」**と捉えられたのかもしれません。
4. ネタとしての展開やオチが弱く、回想トークに近かった
- 漫才は本来、ボケとツッコミの展開や、意外性のあるオチで笑わせるものですが、「あのときの話をそのまま話しているだけ」に近くなった場合、「内輪トークを聞かされている感覚」になりやすいです。
- つまり、「漫才というよりは、昔話を聞いている感じだった」というニュアンスで「内輪ネタ」と言われた可能性があります。
なるほど、まとめると、内輪ネタが敬遠されうる理由としては下記の2点が有力そうでる。
- 内輪ネタに頼ることで"笑いの質"が低くなるから
- 同じコミュニティ内の観客間でも思い出の種類や濃さに差異があり不親切だから
一つずつ検証してみる。
- 内輪ネタに頼ることで"笑いの質"が低くなるから
ここで書かれている「『ネタそのものの面白さ』ではなく『知ってるから笑える』だけになっていた可能性」というのは、かなり納得感がある。本当にネタそのものの面白さで勝負せずに、過去にシェアされた思い出アセットにタダ乗りをして笑いをとっていたなら、それは"ズルい"と思われても致し方ない。
一方で、「ネタそのものの面白さ」ってそもそも一体何?という感じもする。
極論、ほぼ全てのネタは「知っているから笑える」に該当するのではないだろうか。
例えば2024M1チャンピオン令和ロマンの決勝1本目では、小学校のクラスを舞台にしたネタが披露された。しかしこれも、観客たちが小学校の保険だよりや席替えシステムを知っていたから笑うことができたのである。
つまり、「ネタそのものの面白さ」と「観客の知識」は二項対立ではなく、観客の知識を前提とした上で、それをどう調理するかというのがネタの面白さである気がしている。
- 同じコミュニティ内の観客間でも思い出の種類や濃さに差異があり不親切だから
僕ら16人全員が間違いなく通ってきた思い出を題材にしたので、少なくとも今回の観客間で差異は生まれていないはず。
逆にいうと、他のコミュニティにいた人たちにはもちろん全く伝わらない内容。
結論をいうと、僕は今回内輪ネタが一部から敬遠された理由はここにあるのでは?という仮説を持っている。
つまり、「他では見せられないようなものを、場所を良いことに限定的に使うなよ」という感情の一種なのかなという推測。
敬遠していそうなメンバーの一人は、内輪ネタを使わないことを"プライド"と呼んでいた。
僕と僕の相方は、気づかぬうちにプライドを捨ててしまっていたのか?
いや、かっこよく言えば、僕にはシンプルに「なるべく観客にウケるネタにしたい」というプライドがあったように思う。
そのために、使えるものはなんでも使う。
もし今の会社で漫才をすることになったら会社の内輪ネタを使うだろうし、親戚で漫才をすることになったら親や弟をイジってネタにする。
地方に営業しにいく芸人がご当地漫才を披露するように。

内輪ネタを使うという選択は、結果的にはラクに笑いを取れる選択だったのかもしれない。もしそうなら、4組全員内輪ネタを使ったら良いと思う。そして各々は、仮に内輪ネタで被ってしまったときにも差別化できる工夫を凝らしていく。
逆に、内輪ネタを使ったらラクに笑いを取れるような状況であえて内輪ネタを使わないのは、演者側からしたら美学でありプライドであると同時に、観客側からしたらエゴとも取れてしまうかもしれない。観客が求めているのはいつも美味い飯であり、僕は美味い飯を出したい。シェフが何にこだわっているかはあまり僕にとって重要ではなかったのかもしれない。
最初、内輪ネタが敬遠されることにそこまで理解できなかったのは、僕がこれまで信念を貫いて仕事をしてきたことがなかったからかもしれない。あまり自分の気が乗らないようなTikTokの企業案件でも、フォロワーが知りたがっていれば二つ返事で担当に返信した。
人が笑っているということについて
久しぶりに開いたわ。どうでも良いことを思いついたけど、一応どこかに書き留めたいなと思って、でも僕が本拠地にしているサービス(無料)の上限である140字じゃ足りなくて、でも何となくローカルじゃなくて公開という形を取りたくて…
と考えていたらここに辿り着いた。
釣られ笑いをして、日々過ごしていきたい。そう思わないでしょうか?
自分の過去の記憶で面白い!(funnyの意味で)と感じていたコンテンツを振り返ると、どれも登場人物が笑っていたように思う。
最初にふと思い浮かんだのは、西郷どんの笑い袋。
中学生の時から2人組のゲーム実況者「幕末志士」が好きで、そのうちの1人「西郷さん」の笑っているシーンをひたすら切って繋げた動画。
※ニコニコ中学生ぶりに開いたかもしれん。UIしっかりw
釣られましたか?
人間のバックグラウンドを知らないと、厳しいかw
他人が笑っている状況って、無条件に面白いなあと思う。
他人が笑っていると、視覚的、聴覚的に「今って面白いんだ」と瞬時に理解することができる。
あるいは、他人が笑っていることで、無意識に「あ、今笑っていいんだ」という心理的安全を感じることができているのかもしれない。
いずれにせよ、他人が笑っているのを見たり聞いたりするっていうのは、すごく直感的で、ノンバーバルな情報の受信方法だと思う。
だからこそ、いくら仕事終わりで心身が疲弊していたとしても、他人の笑いを摂取することにはあまり自分のエネルギーを使わず、ラクに笑えるのだろう。
最近は「いだちゃんねる」という大学生YouTuberを、この歳になって好んで視聴しています。
コバっていう子が、相方のサイコ君の冗談に対していつもめっちゃ朗らかに爆笑(?)していて、見ててすごく楽しい気持ちになります。
芸人 vs YouTuber、どっちが面白いのかというディベートがありましたが。
何度か芸人のYouTubeを見ようとするものの、なかなか俺には定着しない。
なぜなのかな?と考えた時に、やっぱり冒頭で話した「登場人物の笑い」の量なのかなと思ったのです。
芸人さんって基本的には観客、お客様を笑わせるプロだと思う。
一人がボケをしたら、もう一人がツッコミをして、ボケたほうはさらにボケを被せて、またもう一人はそれにツッコんで…
芸人さん自身が画角上でゲラゲラ長時間笑い転げてるようなシーンはあまりない気がする。
そしてもう一つ。
芸人さんのコンテンツで笑うためには、ある程度読解力が必要だと思うのです。
ちゃんと口から発された内容の意味を理解して、それを自分の中で消化して、頬の筋肉に伝達させるエネルギー。バーバル。
退勤後の俺に、果たしてエネルギーはどれほど残されているだろうか。
なるべくラクができるなら、ラクをして笑いたい。
だから、仕事終わりはだいたいマリカのチームメンバーの配信を見に行ってしまう笑
いや、正確にいうと画面は見ずに、ながら作業で聞いているだけなのですが…
笑い声を聞いているだけで、すごくストレスが軽減されていく気がするのです。
最近TikTokもFF内の人が発信するコンテンツには見飽きちゃってて。
こいつまた似たような投稿しててつまんねえなとか思いながら見ているんですけど、最近一個だけ笑ったのがあって、それが下記の投稿でした。
可処分時間のうち、どれだけ釣られ笑いを喰らい、釣られ笑いを仕掛けられるか。
よく笑う人が、世界で一番偉いと思います。
自分はあまり笑うのが得意ではないので。
SNS上で一方的に、ゆっくり人間フィルターをつくっていく
最近は、少しづつInstagramのフォロワーさんからもDMを貰えるようになってきてて、
たとえば、仕事の愚痴をストーリーに載せていたら、5歳くらい年下の女の子から真剣に転職を勧められたりもします。

ほかには、先日似たような発信者さんと飯に行かせていただきました。
めちゃくちゃ価値観が似ていて共感の嵐。
やっぱりSNSでの繋がりって素晴らしいなと思う。
一方で、SNSの何がそんなに素晴らしいかを改めて考えた時に、
表題にも書いた通り、「一方的に分厚い人間フィルターをつくれる」ことなのかなと思ったので、今日はその話。
一体どういうことかを説明するために、SNSを使わずに生成される人間関係と対比させたい。
たとえば、たまたま大学の学部やサークルが一緒で知り合った男女。
この男女の関係が恋愛に発展するケースを考える。
そこには、かなり複雑な要素が絡むように思う。
まず、最初のステップとして価値観の共有が必要。
そして価値観を共有するためには、まず相手に話を聞いてもらわないといけない。
そこにも2つ条件があって、
1つはお互いの提示する話が嘘偽りのない本心に近い内容であること、
2つにその会話のラリーが1回にとどまらず、長期間、継続的に複数回続くこと。
これさあ、キツくないか...?
まず、そこまで素性も知らない相手に本心から意見を伝えられる人なんて少数で、大抵のケースでは本音と建前を按分した言葉を選んで相手に伝えるだろう。
そして、長期間かつ継続的に本音のラリーを続けていくなんて、時間的コストが大きすぎる。
その状況下で男女が取りがちな行動は「とりあえず付き合ってみる」なのかなと思ったりする。
でも、付き合ってからやっと本音のラリーを重ねられるようになるにつれて、だんだんと価値観のズレが露呈してしまい、しまいには別れを余儀なくされる。
そこには当然、精神的な痛みも伴う。
...事象の程度に差はあれど、これが、SNSを介さない人間関係の構築なのかなと思う。
そもそも、サークルで知り合った男女なんて「テニスが好き」ぐらいの共通点しかなくて、これから仲を深める相手を選ぶサンプルの取り方としては、あまりに雑すぎるんじゃないだろうか...
みんな優しくて器用で外見も良くておまけに運もいいから、そんな中でも素敵な相手と巡り合ってるんだろうけど、凡人の取る戦略としてはどうなのかなと思うんだよ。
対して、SNSはというと、世間体を気にせず本音をただひたすら発信することができて、そこには躊躇もない。
そして、もちろん誰にでもひらかれたSNSなので、相手に聞いてもらえるようにこちらから仕掛ける必要もなく、ほぼ一方的にこちらが発信している状況である。
その投稿をみた多くの人が「コイツキモッ!」と思い、中にはアンチコメを書く人もいる中、何人かが俺をフォローしてくれて、冒頭のようにDMをくれたりもする。
これって、分厚い人間フィルターなんじゃないかな?
つまり、SNSをホンネで更新すればするほど、自分の尖った価値観で構成された濾過装置が出来上がり、そこを通り抜けた人だけが一滴の雫となって俺に連絡をくれる。
仮に実際に会ったとしても、「この人の思考が思ってたのと全然違った」みたいなズレは起こりにくいと思う。
※外見は全然ありそう(爆笑)
ちなみにこのブログも一緒で、「大した脳みそも持ってないやつが小賢しそうな内容をブログに書いててワロタ」みたいに思う人はたぶん俺との今後の関わりは少なくなるだろうし、逆に共感してくれる人は前より少しだけ好感を持ってくれるかもしれない。
人間、誰からも好かれるなんて無理なので、なんならいっそのこと限界までスクリーニングにかけた人たちとストレスフリーな人間関係を構築したい。
そんなことを思って、今日もSNSに愚痴を投稿するのでした。
きんじょ
副業のモチベーション源泉を見つけたかも
とかいいつつかなりマイペースでやってるんだけど、「これがあるからかろうじて継続できているんだな」という話
結論それは、「自分宛に直接届けられるお悩み」なのかなと思っている
たとえば、こんな感じ

最低限の人情さえ持っていれば、
こうやって直接送られる悩みに対して、ちゃんと答えてあげたい!と思える
これが、地味に継続力の補助輪になっているのかなと思う
ポイントになっているのは、
①自分宛に届いている
②直接届いている
という2点
例えば比較対象として会社の仕事を思い浮かべる。
たまに部署宛に顧客からお悩みの電話とか届くけど、このケースだと自分宛ではなくどちらかというと団体宛に届いていて、当事者意識を持ちづらい。
そして、自分が直接電話をとるというよりはメールで回ってきた又聞きのケースが多いから、これもまた当事者意識を減らしてしまう
もし職種が対面営業だったりしたら話は変わるのかもだけど
そして別のメリットを話すと、
自分宛にフィードバックが送られるモデルだから、単純に市場感覚が身についてくるというか、少しずつマーケットの勘所を押さえられるようになってくるのも良い
だんだん再生数が安定してきているのは、やっぱりちゃんとコメントに向き合ってこれたからだと思っていて、その部分だけは自分を褒めたい
もし副業として何かを選ぶなら、そしてもしズボラで継続力に不安があるなら、
俺は自分宛に直接悩みが届くような、そんなモデルが合っているのでは?と思ったのでした。
きんじょ