SNS上で一方的に、ゆっくり人間フィルターをつくっていく
最近は、少しづつInstagramのフォロワーさんからもDMを貰えるようになってきてて、
たとえば、仕事の愚痴をストーリーに載せていたら、5歳くらい年下の女の子から真剣に転職を勧められたりもします。
ほかには、先日似たような発信者さんと飯に行かせていただきました。
めちゃくちゃ価値観が似ていて共感の嵐。
やっぱりSNSでの繋がりって素晴らしいなと思う。
一方で、SNSの何がそんなに素晴らしいかを改めて考えた時に、
表題にも書いた通り、「一方的に分厚い人間フィルターをつくれる」ことなのかなと思ったので、今日はその話。
一体どういうことかを説明するために、SNSを使わずに生成される人間関係と対比させたい。
たとえば、たまたま大学の学部やサークルが一緒で知り合った男女。
この男女の関係が恋愛に発展するケースを考える。
そこには、かなり複雑な要素が絡むように思う。
まず、最初のステップとして価値観の共有が必要。
そして価値観を共有するためには、まず相手に話を聞いてもらわないといけない。
そこにも2つ条件があって、
1つはお互いの提示する話が嘘偽りのない本心に近い内容であること、
2つにその会話のラリーが1回にとどまらず、長期間、継続的に複数回続くこと。
これさあ、キツくないか...?
まず、そこまで素性も知らない相手に本心から意見を伝えられる人なんて少数で、大抵のケースでは本音と建前を按分した言葉を選んで相手に伝えるだろう。
そして、長期間かつ継続的に本音のラリーを続けていくなんて、時間的コストが大きすぎる。
その状況下で男女が取りがちな行動は「とりあえず付き合ってみる」なのかなと思ったりする。
でも、付き合ってからやっと本音のラリーを重ねられるようになるにつれて、だんだんと価値観のズレが露呈してしまい、しまいには別れを余儀なくされる。
そこには当然、精神的な痛みも伴う。
...事象の程度に差はあれど、これが、SNSを介さない人間関係の構築なのかなと思う。
そもそも、サークルで知り合った男女なんて「テニスが好き」ぐらいの共通点しかなくて、これから仲を深める相手を選ぶサンプルの取り方としては、あまりに雑すぎるんじゃないだろうか...
みんな優しくて器用で外見も良くておまけに運もいいから、そんな中でも素敵な相手と巡り合ってるんだろうけど、凡人の取る戦略としてはどうなのかなと思うんだよ。
対して、SNSはというと、世間体を気にせず本音をただひたすら発信することができて、そこには躊躇もない。
そして、もちろん誰にでもひらかれたSNSなので、相手に聞いてもらえるようにこちらから仕掛ける必要もなく、ほぼ一方的にこちらが発信している状況である。
その投稿をみた多くの人が「コイツキモッ!」と思い、中にはアンチコメを書く人もいる中、何人かが俺をフォローしてくれて、冒頭のようにDMをくれたりもする。
これって、分厚い人間フィルターなんじゃないかな?
つまり、SNSをホンネで更新すればするほど、自分の尖った価値観で構成された濾過装置が出来上がり、そこを通り抜けた人だけが一滴の雫となって俺に連絡をくれる。
仮に実際に会ったとしても、「この人の思考が思ってたのと全然違った」みたいなズレは起こりにくいと思う。
※外見は全然ありそう(爆笑)
ちなみにこのブログも一緒で、「大した脳みそも持ってないやつが小賢しそうな内容をブログに書いててワロタ」みたいに思う人はたぶん俺との今後の関わりは少なくなるだろうし、逆に共感してくれる人は前より少しだけ好感を持ってくれるかもしれない。
人間、誰からも好かれるなんて無理なので、なんならいっそのこと限界までスクリーニングにかけた人たちとストレスフリーな人間関係を構築したい。
そんなことを思って、今日もSNSに愚痴を投稿するのでした。
きんじょ
副業のモチベーション源泉を見つけたかも
とかいいつつかなりマイペースでやってるんだけど、「これがあるからかろうじて継続できているんだな」という話
結論それは、「自分宛に直接届けられるお悩み」なのかなと思っている
たとえば、こんな感じ
最低限の人情さえ持っていれば、
こうやって直接送られる悩みに対して、ちゃんと答えてあげたい!と思える
これが、地味に継続力の補助輪になっているのかなと思う
ポイントになっているのは、
①自分宛に届いている
②直接届いている
という2点
例えば比較対象として会社の仕事を思い浮かべる。
たまに部署宛に顧客からお悩みの電話とか届くけど、このケースだと自分宛ではなくどちらかというと団体宛に届いていて、当事者意識を持ちづらい。
そして、自分が直接電話をとるというよりはメールで回ってきた又聞きのケースが多いから、これもまた当事者意識を減らしてしまう
もし職種が対面営業だったりしたら話は変わるのかもだけど
そして別のメリットを話すと、
自分宛にフィードバックが送られるモデルだから、単純に市場感覚が身についてくるというか、少しずつマーケットの勘所を押さえられるようになってくるのも良い
だんだん再生数が安定してきているのは、やっぱりちゃんとコメントに向き合ってこれたからだと思っていて、その部分だけは自分を褒めたい
もし副業として何かを選ぶなら、そしてもしズボラで継続力に不安があるなら、
俺は自分宛に直接悩みが届くような、そんなモデルが合っているのでは?と思ったのでした。
きんじょ
良いものにはいいねをつけたい
もともとSNSが好きで、たぶん人よりほんの少しだけセンスもあり、今では平均30万再生、いいね1万超えもよく見るようになった。
おかげで最近はSNS上のリアクションについて考え、そして悩むことが多くなった。
今日は、どのSNSにも設計されている「いいね(♡)」について自分の考えをまとめておきたいと思う。
改めて、「いいね」というのは極めて異質なものだと思っている。
まず1つ目に、「いいね」は1つ1つがどれも平等な価値を持っているところが面白いと思う。
たとえば、
「めちゃくちゃタメになった!感謝です!」
っていう人のいいねも、
「ふーん。ワロタ」
で押した人のいいねも、
どちらも1としてカウントされ、価値としては同じになる。
ここにはちゃんと気をつけないといけない。
同じ1万のいいねを受け取った2人のインフルエンサーがいたとして、彼らが与えた影響の差は目に見えないほど大きい可能性がある。
だからこそ気をつけないといけないのは、いいねの数で一喜一憂したり、過度に調子に乗ってしまわないようにすること。
youtuberのヒカルが「コメントだけは全部見るようにしてる」って言ってて、やっぱり与えた影響の程度はコメントに定性的に表れるものなのかもなぁなんて考えたりする。
ただ、2つ目にちゃんと自覚しておきたいのは、いいねは疑いようもなく創作の励みになるということ。
やっぱり数として反応が返ってくるところはSNSの醍醐味だと思うし、いいねが多いとアルゴリズム的にも優遇される事実は無視できない。
ここは、「自分のモチベーションのため」と割り切りつつも、しっかり反応を取るような仕掛けをクリエイティブのなかに仕込んでおくことは大切だと思う。
そして最後、3つ目に、いいねは減るものではないところが改めて特殊だと感じる。
友達にお礼にご飯を奢ったりしたらお金が減るけど、いいねはいくら押しても減らない。
なのに、いいねを出し渋ったりする。
これを読んでくれてる人に聞きたいのだけれど、今日見たYouTubeの動画にいいねはしましたか?
...おれは、昔から全然いいねが押せない。
コンテンツを受け取って面白いと感じたのは確かなのに、いいねができないのって、なんでなんですかね?
パッと考えた限りでは5つくらい思いついた:
・シンプルにひと手間がめんどくさい
・知り合いに自分のいいね欄を見られたくない、自分がいいねした事を知られたくない
・相手に反応が通知されるのが嫌
・自分のプライドが高く、この程度では満足しないぞ!と潜在的に思っている
・競争心から、自分のほうが良いコンテンツを生み出せると思っている
...という感じだけど、1つ目以外はどれも承認欲求から派生していたり、他人の目を気にしているところから発生していたりするものなのかなと思った。
別に、、、いいじゃん!いいねすれば!!!
自分の1つのいいねが短期的に見れば受け手のプチ幸福感につながり、
長期的に見ればクリエイターの存続につながるんだから。
普段からいいねが配れる人って、本当に素晴らしいなぁと見習いたくなる。
あと最近思うのは、食べログとかgoogleマップにちゃんといいねしてくれてる人の貢献度はイカつい。
ちゃんと調べていいねの数と率が良いところに入ったら、まず外れない。
飯が美味かった時、よくそこでレビューをするという発想になるよなぁ。
この人たちのおかげで、いつも店選びに失敗せずに済んでいるのかなぁ。なんて思うと涙が出てきますね。
とまぁ、いいねなんて減るものではないし、"押し得"だなって思ったから、これからちゃんといいねを押そうと思った話。
P.S.
Twitterだけはいいね欄をブックマークみたいに使ってるから、安易にいいねが押せない。
Twitterにも早く保存機能🔖が導入されないかな?
きんじょ
バーベキューで使い物にならない俺
仕事というものがかなり苦手で、「生活」とは一般的に何か物事を前に進める営みの連続である以上広義の「仕事」であり、おれは生きるのが難しい。
ただ最近は、
「どういう類の仕事が特に苦手なのか」
、なかなかイイ感じに抽象化できてきた気がする。
今回のブログはそのメモ代わりとしたい。
結論それは、
「役割の与えられていない集団作業」。
例えば仲間内でバーベキューをするみたいなときが、その典型な気がする。
火を起こす者、野菜を切る者、肉を焼く者、皿を並べる者...
複数のタスクが次々に発生していき、各々がその場その場で役割意識を持って自主的に作業を進める中、俺はというと、よくボーッと立ち尽くしている。
もちろんこれは、その時の人数や発生している仕事の量によって状況は変わってくる
人数が少ないときや仕事が多いときは、さすがの俺でも何かはやっている。
ただ問題は、人材が供給過多のとき、もしくは周りの人間が優秀なとき。
おれは必ず職を失っている。
自分がある仕事の存在に気づいた時には、すでに他の誰かが率先して取り掛かっている。
というか、1人の人が2,3人分の仕事をしていることも多く、やっぱりおれは職にありつけない。
こういうとき、普通の人はどう思うのだろう?
俺の場合、そこに「楽できて肉が食えればいいじゃん」みたいな感情は一切なく、
例え遊びの場とはいえ自分の役割を見つけられず手持ち無沙汰になっている状況はまあまあツラい。
「バーベキューで動ける人」になるためには、何が必要なんだろう?
視野の広さ、目的からの逆算思考、単純な経験値...いろいろあると思うんだけど、
ボーッと突っ立ってる俺は何から練習していけばいいのか?
バーベキューの時に俺が怪訝な顔をしていたら、こういうことを考えています。
...と同時に、わりと根っこの価値観のズレも感じている。
会社の仕事は達成する結果に価値があると思うけど、バーベキューはどちらかというと共創する過程に価値を感じる。(俺だけ?)
遊びの場で分担する仕事って、基本的になんでも楽しいからやりたいと思う派。
大塚愛も言ってるように、共同作業ってやっぱいいもんなんじゃない?
こういう価値観を持っているから、たまに俺が主催側のときはみんなの仕事量が均一になるように仕事を振るようにしたりする。
俺に仕事を振られた人って心の中では(なんだよめんどくせえな)って思ってるのかな?
やっぱりこの価値観ってマイノリティなんでしょうか。
1人で台所を占領し、玉ねぎを切りニンジンを切りじゃがいもを切っている人に、俺は「何か仕事ください!」と声をかける。
すると、「仕事は今はないかな」って返される。
こういう人の根本的な価値観ってあくまで「仕事=面倒くさい作業」であって、「みんなの負担を代行してあげてるんだよ」という価値観で動いている?
おれがバーベキューを楽しむためには、まず仕事ができるようになるべきなのか、それともこの少数派に思える自分の価値観を正すべきなのか...
今度バーベキューをする機会があったら、"仕事ができる"人に聞いてみようと思う。
きんじょ
向き不向きはなくて、単純に頭の良し悪し
自己分析とかが流行ってきて、自分の「向き不向き」を考えさせられる機会が多くなってきたように思う
ただ、最近は「向き不向き」なんてそもそも本当に実在するのか?とも思う
なぜなら、周りに結構なんでも器用にこなす人が多くいる一方で、俺みたいに何においてもパッとする結果を出せない人がいるから
「向き不向き」論ってある種、宗教なのかもしれない
それは、AからZの中に必ず自分が向いている最適解があるような前提に立ち、
自己分析や多動を通してその最適解を見つけることさえできたら、自然と非凡な結果を出すことができる...
と信じ込んでいるから。
実際そんなはずはなく、任意のXという目の前の課題に対して正しく試行錯誤し、改善がうまい人が結果を出す
結局、頭がよくて改善がうまい人が結果を出せるだけの話であって、課題が何なのかはあまり関係ない気がする
例えば高校の時学年トップだった友人はもちろんスポーツもできるし、一流企業に内定したし、恋愛も器用にこなすし、ゲームをさせても上手い
この前会って話してたけど、自分には勉強が向いているのか?スポーツが向いているのか?みたいなそんな低次元のことを考えているふうに見えず、
ただ淡々と目の前の課題に対して本質を見抜くのがうまく、正しいアプローチで結果を出している印象を受ける
諦めが必要だと思う...正直頭の良し悪しって先天的な部分が多いと思うし、その頭の良し悪しが出せる結果に影響しているならもうどうしようもない
じゃあ、俺みたいな改善が下手で本質も見抜けない人間はどうすればいいのか?
たぶん、100%主観で生きていったほうがいいと思う。
昇進とか年収とか結婚とか、そういう客観的な指標はどうしても頭の良し悪しに依存してしまうので、
良い結果を出すことには固執せず、出たらラッキーぐらいに考えて、
何より「それに取り組んでいる時間が居心地いい」、みたいな課題を見つけられるように努力する
結果が出せるかどうかの向き不向きではなく、楽しいと思えるかどうかの向き不向きを探し当てることに全振りする
20後半にもなると自分が競争に勝てる人間なのか勝てない人間なのかは薄々自覚できてきたように思うので、
ここからは如何に自分100%の土台で生きていけるかが課題なんだな、と思ったのでした。
きんじょ
世の中反面教師ゲーなのかもしれない
「自分の理想」ってイメージしづらいけど、
その「逆方向」って直感的に掴めると思った話
たとえば、最近「仕事ができる人」って一体何ができる人なのか?ということをよく考えている
確かに上の人を見てると全部が総合的にできている超人のような気がするが、だからといって「上司のようになるためには今これを磨けばいい!」ってとこまで自分の中で分解することはできない
ただ、"明らかに自分より仕事ができない人"がやっていることの異変さには、直感的に気づけることに気づいた(?)。
今日の仕事での出来事。
俺のサポートをしてもらってる派遣社員の人に
「A(pdf形式)というデータを取り寄せておいてください」
と頼んだ。
そしたら、1時間後ぐらいにAに似てるA'(pdf形式)を代わりに取り寄せてきた。
やれやれ、と思いながらも自分の説明不足もあったなと思いつつ、自分でデータの元の置き場を探し出してフォルダを開くと、
そこにはAとA'が並べられて入っていた。
わかるだろうか、つまり、
「(探したけど)A'しか見つけられませんでした」みたいな状況ではなかった
その派遣さんは、Aを見たのになぜかAを選ばずあえてA'だけを選んで俺に納品した。
申し訳ないけど、理解できない。直感的に。
もしおれだったら、AとA'を見つけたタイミングで、チャットで確認するか、もしくはAとA'を両方納品しつつ、どちらがよいかわからなかった旨を添えると思った。
こんな感じで、なんとなく、派遣さんの異変には直感を持ってして気づくことができる。
逆に、上司を見ていても俺との差を直感的に理解することはできない。
ただ、ふと考えてみると...
自分は「2パターンで迷った」時に、上でシミュレーションした対応がちゃんとできているのだろうか?
pdfデータの納品みたいな単純な話ではなく、例えば販売企画の方向性で悩んだ時とか。
ちゃんと、AパターンとA'パターンで迷った時に、上司に頭出しして確認が取れていたか。それが難しい場合は会議に2パターン持っていけてたか。
なんとなく自分の浅いロジックで肉付けしただけのA'パターンを持って行ってた時もあったかもしれない。
もしかしたら上達のラクなアプローチっていうのは、上との差を見つけて埋めようとするのではなく、
下(人間的価値の話はしていない)との差を見て直感的に気づいた異変から抽象化して、自分事としてとらえ直すことなんじゃないか?って思った
なんか意識高い感じになってしまったけど、やっぱり何事においても、
俺には"ロールモデル型"思考より"反面教師型"思考のほうが合っているんじゃないか、
そう思うのでした
きんじょ
時間厳守の二重苦
「決められた時間に決められたことをしないといけない」状況って、控えめに言ってしんどすぎる。
なぜそんなにしんどいのか...そう振り返ってみた時に、
「ダブルでしんどいから」では?と思った話
そしてその二重苦はズバリ何かというと、「準備」と「実行」だと思っている。
例えば、世の9割の人間が避けては通れない
「平日の朝、早起きしなければならない」
という事象について考える。
そのままの事象として捉えてしまうと、上記を「〇〇しなければならない」という一元的なノルマと捉えてしまいがち
だけど、よくよく分解してみると、
①(朝起きれるように)早く寝なければならない
②(次の日実際に眠たい目をこすって)早く起きなければならない
という2つのノルマが同時発生しているように思える。
そして、ここがダブルで効いてきているように思えてならない。
仮に上記のように2つに分けて考えている人がいたとしても、どうしても②のほうにフォーカスがいってしまっているのではないだろうか
良くも悪くも、実行できるかどうかが問題、だから。
でもよく考えてみると、①の「準備」による機会損失って、割と軽視できないなって思う。
なぜかと言うと、何か人生を変えるきっかけになるようなことや、かつて味わったことのない幸せを噛み締められる瞬間って、「セレンディピティの形」で現れる気がしていて、そのセレンディピティは"準備"をしている人間には受け止められないから。
※セレンディピティ(英語: serendipity)とは、素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見すること。(Wikipedia)
例えば、本屋で立ち読みをしている時。
偶然、表紙が目に入った本。
手に取る。
もしかすると、その本が人生を変えるきっかけになるかもしれない。
ただ、次の電車を逃すともう始業時間には間に合わない。
本を読んでいる暇はない。
しぶしぶその本を元あった場所に返してホームに向かう...
寝る前にちょっとだけ、と新しいアニメを見てみる。
見始めたら、それがたまらなく面白い。
でも、2話目をみてしまうと次の日寝坊が確定する。
なくなくスマホを横に置き、
代わりにアラームだけセットして眠りにつく...
人間を操縦される飛行機に見立てるなら
離陸するその瞬間だけではなく、むしろ助走の時点から空気抵抗を受けている
そして、助走に要する時間は離陸に要する時間よりずっと長く、その長さに比例して機会損失を生む発生確率が高まる
欲を言うなら、人生で数回しかないかもしれないようなセレンディピティを、俺は全身全霊を持って迎え入れられる器が欲しい
その奇跡的な瞬間に、明日の準備が...とか本当にしょうもない
未来の約束を他者に設定されてしまうと、時間軸上にプロットされるその1点より、その前に発生してしまう間接的な制限が、人生をこの上なく空虚にしているのでは?と思ったのでした。
きんじょ